香川県建設業協会 創立70周年記念誌
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香川県建設業協会創立戦後の法整備紆余曲折の前払い保証制度 1948(昭和23)年は、建設業界の体制が確立した記念すべき年となった。建設業界は戦後すぐ再建した統制組合を拠点に建設省設置運動を展開し、政府をはじめ関係方面にアピールした。その内容は「国土の復興を建設、技術の向上、資材と労働者の確保など建設全般に関する一元的総合官庁の実現」を要望したもので、2年余りの運動が功を奏した。1948年1月に発足した建設院が、7月に建設省に昇格。全国建設業協会の創立総会には地方38団体、5,000人が参加した。香川県協会は準備中ではあったが、清水建設支店長の藤本賢太郎が四国地区代表理事として役員に就いた。 香川県土建協会は1948年4月に、地元業者と県内に出先を置く県外業者あわせて40者で創立総会を開催し、任意団体としてスタートした。1951(昭和26)年に香川県建設業協会に改称、1953(昭和28)年に社団法人に認可された。 建設省の発足後、関連法案が次々と打ち出された。最初に成立したのが、1949(昭和24)年8月施行の建設業法である。それまでは納税額によって入札指名の格付けがされていたが、法の施行後は、大臣か知事登録が必要となり、1件の工事30万円以上という条項が定められた。初年度の登録者数は、全国で3万3,139社であった。1950(昭和25)年には建築士法、建築基準法、住宅金融公庫法が制定。建築業界の法整備は着々と進んでいった。 住宅金融公庫法成立の翌年、住宅金融公庫高松支社が開設した。戦後の日本は、衣・食・住の全てが不足しており、1945(昭和20)年8月における住宅不足は約420万戸(うち210万戸が空襲による焼失)で、住宅不足の解消が当時の喫緊の課題であった。 県内に公庫融資住宅が普及し始めたのは1952(昭和27)年から1953(昭和28)年にかけてである。この頃の県内では坪当たり3万円程度で家を建てることができたが、融資坪単価は東京基準の全国同一単価(4~5万円)だった。このため、融資限度枠(対象面積30~60㎡、融資率75%)いっぱい借り入れると「住宅以外に高級応接セットが買えた」という話もあった。 公共工事の前払い保証制度は、戦後の激しい景気変動で業界の慢性的な金融難を解消するための制度である。政府支払いの遅延、銀行の建設業への貸し渋りは、金融面で大混乱に陥った。1950(昭和25)年12月の全銀行の貸出残高率は、製造業の54.4%、卸売業の24.8%に対し、建設業はわずか2.56%にすぎなかったことは、銀行の建設業に対する評価の低さを物語っている。 制度開始までに、建設手形発行案や建設銀行設立案なども浮上したが、いずれも採用されな藤本 賢太郎協会70年のあゆみThe 70th anniversary commemorative book129

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